Luna's Monologues

生きることには、意味も使命も必要じゃない






愛する人を交通事故とか、犯罪の被害とかで失ったとき、遺族はこう思う、「なぜあの人が死ななければならないの?」

戦争中、死が確実な運命となったとき、ひとは死ぬことに意味をつけようとする。

逆に、生きることに意味を必要とするひともいる。

エホバの証人でいつづけたいひとたちには、神がいなければ人生には意味がないことになる、というのがいる。



ふつう誰にとっても、死ぬのは不本意だから、「なぜ」と問いたくなることには理解がおよぶ。「なぜ、いまここで死ぬのか」と思うのも、「いまここで死ぬことになるが、自分の死ぬことには意味があった」と信じようとするのも、命への、生きることへの執着があるからだ。

ではなぜひとは生きることに執着するからだろうか。そこに何か重大な、あるいは重要な意味があるからだろうか。もしそうだとしたら、とくに意味や目的を持たないひとは生きることを平然と放棄するだろうか。

中学生や高校生たちに、将来何をしたい、と聞いても半数くらいのひとは、まだわからない、というだろう。でもそんな中学生や高校生たちに、もし近日中にあなたが死ぬ、ということになったら、素直にその運命を受け入れるか、と訊いたら、たいていのひとは拒絶反応を示すだろう。

とくに何か重要な使命のために生きているわけではないが、死ぬのはごめんだ、と。

ひとが生きているのは、なにか重要な使命があるからではなく、単に人間として生まれてきたからだ。人間の身体は何十年かの間生きるようにできている。生きていて、生き続けるために食べたり、エッチしたりすることが楽しいし、また人間には高度な脳があって創作することを楽しめる。

そうやって、楽しいと感じることがあるから生き続けたい、と思う。あるいは、いつか楽しいことに達するだろうという期待があれば、多少の不遇にも耐えられる。

ひとは、楽しい、ということのためにだけで、生きてゆけるのだ。なにも深刻な使命など必要ではない。いや、楽しいということがあれば生きてゆくのに十分だ。それが阻害されるとき、ひとは、ひとから楽しさを奪おうとする「体制」やら「伝統」やら、「独裁」やらから自由になろうとして闘う。それは傍から見れば、高邁な活動のように思えるし、そういう闘いをしている人を見て、「あのひとは使命感を持っている」みたいな評価がされる。でもそういうひとは、そういう闘いをするために生まれてきたのではない。そういう闘いをせざるを得ない状況に見舞われたに過ぎない。できればそんな闘いをせずにすむのがもっとも望ましい。



人間が、意味を求めることなく死にたい、と思うのは、楽しさへの期待を一切見失ったとき、つまり生きるということに絶望したときだ。人間が、生きることに意味や使命を求めるのは、いま生きることに楽しさを見いだせないからだ。
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by psychic-luna | 2010-01-03 23:35
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