Luna's Monologues

2010年 01月 03日 ( 2 )

生きることには、意味も使命も必要じゃない






愛する人を交通事故とか、犯罪の被害とかで失ったとき、遺族はこう思う、「なぜあの人が死ななければならないの?」

戦争中、死が確実な運命となったとき、ひとは死ぬことに意味をつけようとする。

逆に、生きることに意味を必要とするひともいる。

エホバの証人でいつづけたいひとたちには、神がいなければ人生には意味がないことになる、というのがいる。



ふつう誰にとっても、死ぬのは不本意だから、「なぜ」と問いたくなることには理解がおよぶ。「なぜ、いまここで死ぬのか」と思うのも、「いまここで死ぬことになるが、自分の死ぬことには意味があった」と信じようとするのも、命への、生きることへの執着があるからだ。

ではなぜひとは生きることに執着するからだろうか。そこに何か重大な、あるいは重要な意味があるからだろうか。もしそうだとしたら、とくに意味や目的を持たないひとは生きることを平然と放棄するだろうか。

中学生や高校生たちに、将来何をしたい、と聞いても半数くらいのひとは、まだわからない、というだろう。でもそんな中学生や高校生たちに、もし近日中にあなたが死ぬ、ということになったら、素直にその運命を受け入れるか、と訊いたら、たいていのひとは拒絶反応を示すだろう。

とくに何か重要な使命のために生きているわけではないが、死ぬのはごめんだ、と。

ひとが生きているのは、なにか重要な使命があるからではなく、単に人間として生まれてきたからだ。人間の身体は何十年かの間生きるようにできている。生きていて、生き続けるために食べたり、エッチしたりすることが楽しいし、また人間には高度な脳があって創作することを楽しめる。

そうやって、楽しいと感じることがあるから生き続けたい、と思う。あるいは、いつか楽しいことに達するだろうという期待があれば、多少の不遇にも耐えられる。

ひとは、楽しい、ということのためにだけで、生きてゆけるのだ。なにも深刻な使命など必要ではない。いや、楽しいということがあれば生きてゆくのに十分だ。それが阻害されるとき、ひとは、ひとから楽しさを奪おうとする「体制」やら「伝統」やら、「独裁」やらから自由になろうとして闘う。それは傍から見れば、高邁な活動のように思えるし、そういう闘いをしている人を見て、「あのひとは使命感を持っている」みたいな評価がされる。でもそういうひとは、そういう闘いをするために生まれてきたのではない。そういう闘いをせざるを得ない状況に見舞われたに過ぎない。できればそんな闘いをせずにすむのがもっとも望ましい。



人間が、意味を求めることなく死にたい、と思うのは、楽しさへの期待を一切見失ったとき、つまり生きるということに絶望したときだ。人間が、生きることに意味や使命を求めるのは、いま生きることに楽しさを見いだせないからだ。
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by psychic-luna | 2010-01-03 23:35

ひとことくらいのあいさつがあってもいいでしょうに…






あのさあ、ちょっとカチンときてんの。

あるブログの方からトラックバックをいただいたのね。超有名なブログの方からだったんで、すんごくうれしかったんですよ。

で、すぐにお礼の意味でトラックバックをお返しして、トラックバックくださった方のブログのコメント欄にもお礼したんです。

この時点ではレスなんて期待していなかったんです。でも、ひょっとしたら、と思って、夕方に覗いてみたんです。そしたらね…。

何人かのひとのご挨拶にはレスが返されていたんだけど、あたしのとほか何人かのひとのコメントは無視されてたんです。



これってさあ、結構傷つくんですよ、いや、ホント。

まあ、わたしはあまりPCには時間割いていないし、だからよく見るサイトでも、コメントとかしないから、あまり親しく思われていないのはしょうがないとしよう。でもさあ、同じような時間帯にコメントしたのに、自分だけ無視されてるって…。ふつう、おもしろくないですよねぇ。

わたしがエホバの証人だったときには、こんなことする長老がいたんですよ。自分の思い通りに動かない人や、自分とは趣向の異なる人がね、いくら註解しようとしても、わざと当てないの。そういうのがものすご~いイヤに思いましたし、自分がその対象になったときにはすごく傷つきました。

そういう経験があるもんだから、今回のようなことがあると、相手の腹の底を勘ぐっちゃうのね。

自分が有名だから人を選り分けてんのか、とか、あたし、このひとになにか気に触ること言っちゃったことあるのかなあ、とか。

「不満があるんなら、はっきりそう言えばいいじゃない、あなたがいつもブログでえらそうにそう言ってるんだし」。

みなさんなら、きっとそうおっしゃるでしょうね。

それは確かにそのとおりです。でもさあ、実際はそんなこと言えないですよね、おおぜいの人に公開されている場所だし。だから、「あ、そう、あなたがそういう態度に出るんならお好きにどうぞ、あたしは平気よ」なんて心の中で言いながら、もちろん、全然平気じゃないんだけど、もうそういう人とは遠めに距離を置くようにしよう、って決心して、忘れるようにしますよね、ふつうは。まあ、そうするのが正解なんでしょうけど。



あのひとに注意されても腹が立たないのに、このひとから指摘されると、それが正鵠をついていてもむかっとして、耳をふさいでしまう。ひとはなぜひとによって感じ方が変わるのか。このことを研究して引き出された概念があります。「イデオシンクラシー・クレジット」という社会心理学の用語らしいんですが…。

ある人には信頼感を抱くのに、別の人には警戒心を抱く。どうすれば警戒されずに、信用を得るようにできるでしょうか。それは…

こうすることです。



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日常レベルでの誠実さをていねいに実行することである。

会議や商談などで電話に出られずに、留守番電話にメッセージが入っていた場合、直属上司やリーダー格のひとに対しては迅速に返事するのに、同僚や後輩への対応は後回しにする。こんな人間はだいたい、「いやあ、忙しくってさあ」で済まして平然としている。

「忙しい」といえば許されると思っている。言われた側の気持ちに思いをはせることができない。携帯電話のない時代なら、連絡を取るすべがすぐにない場合もあったので、そんな言葉も許されたかもしれない。しかしいまは、廊下を歩いている最中でも、トイレからでも「ごめん、いまは手を離せないから、あとでまた電話する」のひとことなら1分もかからない。

社会で生きている人が便利なものを持つ以上、その利便の益を他の人も受ける権利が発生する。こちらも相手の立場に立ち、相手を気づかい、相手に誠実に対応する義務も自分に発生するのではないだろうか。

人間関係への姿勢が近視眼的なひとは、「信用というものは大きなことをしないと積みあがらない」というように勘違いしている人である。人間関係に恵まれる人というのは、面倒くさくても「他者への気配り」をまめに実践するひとである。




(「人間関係が一瞬で変わる『自己表現』100」/ 原孝・著)

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これですよ、これ。

信頼は小さな当たり前のことをていねいに実行することでしか築かれないものなんですよね。

身近な人は、つい相手に甘えてしまって、まあ、わかってくれるだろうで済ましてしまうことが多いようですが、身近な人だからこそこういうことを疎かにしていると、関係にひびが入るようになり、やがていっしょにいるのに孤独に感じる、なんて事態を身に招きます。身近にいる人がいちばん大切なひと。だから身近な人こそていねいに接する、これがまっとうな順序です。

「どうもごていねいに、今年もよろしく」くらいの文章書くのに何時間もかかるわけではないでしょうに、ねえ。
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by psychic-luna | 2010-01-03 03:35



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